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さて、兵庫県加東市にある、上鴨川住吉神社。
わりと小じんまりしているが、いかにも神社らしい神社だと私は思う。
どういったところが神社らしいのかを、これから書く。
というのは、神社と言えば、出雲大社とか、春日大社とか、兵庫県内で言えば、西宮の戎神社とか、神戸の湊川神社とか、ああいった大きくて立派なかまえの神社が神社だと思っている人が多いからだ。
しかしそうではないのだ。本来の神社らしい神社とは、この上鴨川住吉神社のような神社をいうと思うのだ。

道路からは、境内の様子が全く分からない。そこに神社があることさえも、見落としてしまいそうなくらいだ。
車を2,3台停められる程度の駐車場(というよりも空き地)があって、そこから石段を登る。
石段を登るまで、やはり境内の様子は見えない。

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石段を登りきると、境内があるが、塀などで囲われているわけではない。まわりが杉などの高い木で囲まれていて、そこだけぽっかりと空いたような空間になっているのだ。
それがいかにも神域という感じを醸し出している。
建物がいくつか建っているが、境内の周囲に沿って建っているので、境内の中央は広場的に空いている。建物もきわめて質素な造りだ。

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で、面白いのは、その広場の中央に、木の幹が一本立てられていることだ。
実は私が訪れたのは、この神社で一年に一度催される「神事舞」という舞踊的神事の数日前だった。そのため、その神事のための、神さまの依り代(よりしろ)として、その木の幹が建てられていたようだ。神さまというのは、普段はそこにいるわけではなくて、どこか高い所にいるので、神事をするときには、降りて来てもらうのだ。依り代は、そのための目印である。

広場の奥側に鳥居があって、そこからまた石段を何段か上るようになっている。そこにも建物がある。それが拝殿だ。
拝殿は、本殿とは違う。本殿はもっと奥にあって、降りてきた神さまは、そこにご滞在になるので、それを拝むための場所が拝殿だ。
出雲大社などで、大きなしめ縄がある建物が拝殿だ。観光ガイドブックなどでは、それがドーンと紹介されるので、それがメインの本殿だと思っている人が多いが、そうではない。本殿は拝殿の更に奥にあって、通常、あまり見えない。
この上鴨川住吉神社でも、広場からは本殿はよく見えない。鳥居をくぐって、石段を上がると、拝殿の奥に見えてくる。
このへんの奥ゆかしさも、同じ宗教建築でも、お寺とは違う、神社の特徴と言える。

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さて、その本殿は、1970年に解体修理が行われ、その時に木部の塗り替えなども行われたので、他の建物に比べると色鮮やかで新しく見えるが、1493年に建てられたものだから、すでに500年以上を経過している。
流造(ながれづくり)の優美な建物である。

私がこの神社を気に行ったのは、そのあり方が権威主義的でないこと。
古事記や日本書紀によって、神さまは天皇(つまり当時の最高権力者)の祖先として権威づけられ、以来、そのことを強調するような豪壮な造りの社殿を持つ神社が多く造られてきた。
しかし、この上鴨川住吉神社は、それ以前の、民衆の守り神であり、また畏れの対象であった神さまのありかたの雰囲気を、よく残していると思う。
こういった神社は、都会ではなく、こういった田舎に多数点在すると思う。そのような神社は、観光ガイドブックには殆ど載ることがないだろうけど、それを一つ一つ訪ね歩くのは、たいへん面白そうな気がする。

なお、同行した安田倫子女史(この人は仕事上のパートナーですが、一緒に暮らしている人でもあります。)は、さいしょ私の蘊蓄を、ふーん、などと言いながら聴いていたが、そのうち銀杏の大木の下に、たくさんのぎんなんが落ちているのを見つけ、車からビニール袋を取ってきて、私の話なんかそっちのけで、それを集めるのに夢中になってしまった。
しかし、家に帰ってから、煎って食べたぎんなんは、粒が大きくて、綺麗なエメラルドグリーンをしていて、とても美味しかった。


(追記)
上鴨川住吉神社神事舞の写真のサイトがありました。
http://kobe-mari.maxs.jp/kato/sumiyoshijinja_shinjimai_01.htm
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最近、神社がわりと好きで、休みの日など、ドライブの途中で神社があったりすると、ちょっと寄ったりする。
なんで神社が好きになったかというと、「日本のもと・神さま」(中沢新一著)という本を読んだのがきっかけだ。なんで、その本を読んだかというと、同じ著者の「日本の大転換」という本を読んだからだ。
それで、なかなか面白い考え方をする人だと思って、アマゾンで検索したら「日本のもと・神」さまという本があったので、これも読んだわけだ。

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実はこれ、小学生向けに書かれている本で、ちょっと難しい漢字には、ほとんど振り仮名が振られている。こういう子供向けの本というのは、私はわりと好きで、字も大きいし、文章も分かりやすいし、マンガ風イラストも多いのがいい。(つまり私の読解力が10歳程度ということか。)
それで、神さまというのは、日本人のアイデンティティーに通じることろがあるなと思ったのだ。(なお、日本で神様と言うと、キリストやアラーやブッダや松下幸之助も神様ということがあるけど、ここでいう神さまとは、天照大神(アマテラスオオミカミ)とか、大国主命(オオクニヌシノミコト)とか、須佐之男命(スサノオノミコト)など日本古来の神さまのこと。)
そして更にいくつか神さま関係の本を読んで、一応の知識を仕入れた。

で、神さま関係の建築と言うと神社だ。
建築設計をやろうと思って大学の建築学科へ入って勉強し始めると、日本建築史という講義もあって、日本の古来の建築についていろいろ学んだ。
神社建築についてもいろいろ学んだが、その代表作は、「伊勢神宮」と「出雲大社」である。私は特に伊勢神宮内宮の建築的デザインの素晴らしさに感動した。
といっても、この建物は一般人がその近くまで立ち入ることはできず、実際には、ほとんど見ることができない。だから写真だけだが、それでも素晴らしいと思った。
格調の高さ、清潔感、優雅さ、日本文化の真髄のような建物だと思う。

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                       (小学館「原色日本の美術」第16巻から)

まあ学生時代の、そんな経験もあって、神社とか神さまとかには、もともと惹かれるものがあったのだ。

で、この前立ち寄ったのは、兵庫県加東市にある、上鴨川住吉神社。
わりと小じんまりしているが、いかにも神社らしい神社だと思った。

(そのことについては、また次回に書こう。)
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先日、法隆寺へいってきました。パートナーの安田倫子女史も同行。
なぜ法隆寺へ行きたくなったかと言うと、最近「法隆寺の謎を解く」という本を読んだからです。著者の武澤秀一氏は建築家なので、建築を設計する人から見た法隆寺論ということでが、たいへん興味深く読みました。

で、何が法隆寺の謎かというと、色々あるのですが、一番のメインの謎は、中門の中央に柱が建っていて(下の写真参照)、このような設計は日本のお寺に一つもないということ。

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これは昔から謎とされていて、いくつかの説が出ていたのですが、一番センセーショナルだったのが、梅原猛が「隠された十字架」という本で打ち出した、聖徳太子一族鎮魂説です。これは有名な説なので、ご存知の方も多いかもしれませんが、聖徳太子の死後、その息子の山背大兄皇子が、皇位継承のトラブルから蘇我入鹿の軍勢の襲撃を受け、斑鳩寺(聖徳太子の私寺だった)にて家族全員、女子供まで自害して絶えた。その後、その祟りを恐れた者たちが、聖徳太子一族の魂を鎮めるために法隆寺を造り、怨霊をそこに封じ込めるために、門を封印するという意味で、中門の中央に柱を建てたというものです。

この梅原説に対して、武澤氏は真っ向から反論しています。その理由や根拠などは、推理小説の謎解きのように面白いので、興味のある方は、ぜひ本を読んでいただきたいと思いますが、要するに、機能上のこととデザイン上のことで、そのようにしたのだというわけです。この機能とデザインに理由を収斂させるところが、いかにも建築家の論で、私としては面白かったし、梅原説よりも納得できるところが多かったです。
それで私としては、この武澤説を検証すべく法隆寺を訪れたわけですが、そこで奇しくも私は、中門の柱についての全く新しい説、安田倫子説に遭遇することになりました。

安田倫子女史によると、「そんなん、真中に柱がある方がしっかりするから、そうしたんとちゃうん。」ということで、その根拠としては、柱の下部で柱を支えている礎石に形に注目したのです。中門の柱は10本あるので、礎石も10基あるのですが、それぞれの礎石の形が、みんな違っていて、形がいびつで、大きさもまちまちで、要するに、その辺にあった手ごろな石(といってもけっこう大きいが)を持ってきて適当に置いたのだというわけです。
なるほど、そう思ってみますと、その通りです。中門はメインの出入り口なのですから、礎石が皆そろっている方が格好がいいし、それに形もばらばらで、大きさもまちまちなら、つまづきやすいです。
であるにもかかわらず、そのような石が使われているのはなぜか。その理由を安田女史は「昔の人は大らかだった」と一言のもとに決定づけるわけです。設計者も施工者も、そして建築主もおおらかであって、当時は石を運んだり切ったりするのは大変な労力を必要としたはずだから、「そんな無理せんでええやん、適当でええやん。」という感覚のもとに、このような礎石が使われたのだというわけです。

そして、この大らかさは、礎石のみならず、中門の設計および施工にも同様に発揮され、当時の設計者や施工者曰く「まあ大体このお寺だったら、これくらいの大きさの門はほしいよなあ。そうすると出入り口の幅はこれくらいがいいよなあ。そこに柱を建てるわけだけど、普通に中央を空けるような柱配置にすると、どうもそれぞれの柱間隔が広すぎるようになってしまって、ちょっと構造的にあぶないよ。そしたら1本柱を増やすか。門の真ん中に柱が建ってしまうけど、べつに通れないわけではないし、かまへんやん。」という感じで、そのように施工されたというわけである。
それを後世の人が、ああでもないこうでもないと、小難しい理屈をひねり出して論じているだけであって、安田女史曰く、「昔の人は大らかで、そんか難しいこと何も考えてへんねん。あの礎石を見たらわかるやん。」と、こうなるわけである。

ついでに法隆寺のもう一つの謎として、その伽藍配置があります。
当時の主要なお寺は、四天王寺にしても、東大寺にしても、薬師寺にしても、金堂や塔の配置が、左右対称になるようになっているのに、法隆寺では、中門を入ると、左に塔が建っていて、右に金堂が建っていて、左右非対称の配置になっています。(次の写真は、中門から北を見たところ。)

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この左右非対称配置は、その当時、2,3の寺で採用された例はあったようですが、きわめて少なく、残存している例は法隆寺しかありません。なぜ法隆寺では、このような配置にしたのか。

これについても梅原猛は鎮魂鎮魂と言い、武澤氏は機能とデザインと言うわけですが、安田女史は違います。
法隆寺の回廊で囲まれたスペースの北側は、すぐに斜面となっています。で、当時の設計者と施工者曰く「あの斜面を削るのは大変やから、やめとこな。せやけど、そうなると南北が狭くなってしもうて、塔と金堂を前後に建てるのは無理やで。そしたら左右に建てたらええやん。左右対称にはならへんけど、べつにかまへんのとちゃうん。かえっておもしろいやん。」というわけで、ここにおいても、古代の人たちの大らかな発想、というか無理しないという自然態の心、というか、ええようにしたらええやん、というこだわらない心が、大いに発揮されたわけです。

以上、法隆寺の謎に対する、安田倫子説をご紹介しました。
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