バロック・アンサンブル随想(3)
2013-02-07
(この記事は、2011年10月にMIXIに投稿した記事の再録です。)
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「バロック音楽随想」において(1)では音量について、(2)では音質について書きましたので、今回は音程のことについて書いてみたいと思います。
私がよく弾いているヴィオラ・ダ・ガンバという楽器は、ギターなどと同じように、フレットが付いています。ただ、ガンバのフレットは、ギターのように金属製で固定されたものではなく、ガット弦(不用になったものなど)をネックに巻いて結んであるだけですので、移動させることができ、自分で調整が可能です。
ではきちんと調整してあれば、正確な音程の演奏が可能かというと、そんなことはなくて、指の押さえる位置によって音程は変化します。(ガンバにフレットが付いているのは、開放弦の音色とそれ以外の音色を均一化するという役割が大きいです。)
すなわち、フレットの真上近くを押さえるのと、フレットから離れたところを押さえるのとでは、音程がかなり変わります。
ギターの場合は押さえる位置がずれても、音程はほとんど変化しませんよね。ですので、ガンバはギターとチェロの中間のような感じです。
で、私は仲間とのアンサンブルをする時は、たいていICレコーダーで録音をして、それをあとで聴くのですが、以前はどうも自分の音程が悪く、はずれていることが多いような気がして、そのことが気になって、ガンバを弾く時は、いつも電子チューナーを脇に置いて、時々それを横目で見ながら、自分の音程に狂いがないかチェックしていました。
ところが、そのように気をつけていても、あとで録音を聴くと、やっぱり音程がおかしいなあ、他の楽器(リコーダーやトラヴェルソ)とずれているなあと思うことがよくあって、それでともかく音程の良い演奏をすることが、自分の課題でした。
ところが忘れもしない今年(2011年)の3月31日、あるリコーダークラブのアンサンブルに参加して、何人かの方のお相手をしてガンバを弾いたのですが、その中にNさんというリーダー格の女性がいて、その人とテレマンのソナタをやりました。
そして帰ってから録音を聴いたのですが、このNさんとの演奏が、他の方々との演奏に比べて、段違いに私の音程が良く聞こえるのです。リコーダーとの音程のずれもなく、とても良い感じのアンサンブルになっているのです。
その時、わかりました。Nさんは、私のガンバの音を聴いて、それにご自分のリコーダーの音を合わせてくれたのだと。(そして、ついでに言えば、私自身の音程もそれほど悪いわけではなかったのだと。)
つまり二つの楽器が、どちらが正しいとか正しくないとかいうことではなくて、両者の音程がずれていたら、どちらも正しくないように聞こえるのですね。
もっとも、聴いている人は、たいてい高音楽器であるリコーダーの方に耳を傾けますので、両者がずれていると、リコーダーの方が正しくて、ガンバの方が正しくないように聞こえてしまうようで、その点、低音楽器は損ですが。
なお、アンサンブルに加わるもう一つの楽器、チェンバロは正しいはずだから、それを基準にして、チェンバロとずれている方が正しくないのだと判断できそうに思えるのですが、実際は、チェンバロの音というのは他の楽器の音とたいへん親和性が良くて、ちょっとずれていても合っているように聞こえるようです。ですからチェンバロを基準にして判断するのは、意外とむずかしいです。
(弦をはじく楽器は、どれも比較的音程のずれが目立ちにくいように思います。ギターやリュートなどがそうですが、弦楽器でも弓で弾くよりピチカートではじく方が音程のずれが目立ちにくいです。チェンバロはもちろん弦をはじく楽器です。)
その後、別の場でも同じような体験をしました。あるリコーダークラブの練習会があって、プロの先生がレッスンに来られるということで、私はガンバで、伴奏の通奏低音として参加しました。
その時、先生は生徒さんの演奏を聴いたあと、そこはこう吹いた方がいいですよと、その一部を自分で吹かれます。私は、生徒さんが吹くときも先生が吹くときも、同じように伴奏をするのですが、あとで録音を聴いてみると、先生の伴奏をしている時の方が、ずっと上手に聞こえるのです。
というわけで、アンサンブルにおいて音程の良い悪いというのは、一つの楽器の絶対的な周波数が正しいかどうかということもさることながら、複数の楽器が相和しているかどうかが大事なのだと、(ある意味、当然のことを)遅ればせながら気付きました。
そしてそのためには、それぞれの奏者がお互いの音をよく聴いて、それに合わせようとしなければならないようです。ですから、他の人の音を聴く余裕、その違いを聴き分けられる耳、そしてそれに合わせるべく音程を調整する技術が必要になってきます。
上手な人というのは、これらのことができる人だと思いますが、達人になると、それが瞬時に自動的にできちゃうようです。
したがって、そういう人とアンサンブルすると、本当にこちらまで上手になったように聴こえて、うれしくなってしまいます。
指がよく回るとか、タンギングが速くできるとかいうのは、それはそれで素晴らしいことですが、アンサンブルにおいては、もっと大事なことがあるんだなあと、近頃思っています。
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「バロック音楽随想」において(1)では音量について、(2)では音質について書きましたので、今回は音程のことについて書いてみたいと思います。
私がよく弾いているヴィオラ・ダ・ガンバという楽器は、ギターなどと同じように、フレットが付いています。ただ、ガンバのフレットは、ギターのように金属製で固定されたものではなく、ガット弦(不用になったものなど)をネックに巻いて結んであるだけですので、移動させることができ、自分で調整が可能です。
ではきちんと調整してあれば、正確な音程の演奏が可能かというと、そんなことはなくて、指の押さえる位置によって音程は変化します。(ガンバにフレットが付いているのは、開放弦の音色とそれ以外の音色を均一化するという役割が大きいです。)
すなわち、フレットの真上近くを押さえるのと、フレットから離れたところを押さえるのとでは、音程がかなり変わります。
ギターの場合は押さえる位置がずれても、音程はほとんど変化しませんよね。ですので、ガンバはギターとチェロの中間のような感じです。
で、私は仲間とのアンサンブルをする時は、たいていICレコーダーで録音をして、それをあとで聴くのですが、以前はどうも自分の音程が悪く、はずれていることが多いような気がして、そのことが気になって、ガンバを弾く時は、いつも電子チューナーを脇に置いて、時々それを横目で見ながら、自分の音程に狂いがないかチェックしていました。
ところが、そのように気をつけていても、あとで録音を聴くと、やっぱり音程がおかしいなあ、他の楽器(リコーダーやトラヴェルソ)とずれているなあと思うことがよくあって、それでともかく音程の良い演奏をすることが、自分の課題でした。
ところが忘れもしない今年(2011年)の3月31日、あるリコーダークラブのアンサンブルに参加して、何人かの方のお相手をしてガンバを弾いたのですが、その中にNさんというリーダー格の女性がいて、その人とテレマンのソナタをやりました。
そして帰ってから録音を聴いたのですが、このNさんとの演奏が、他の方々との演奏に比べて、段違いに私の音程が良く聞こえるのです。リコーダーとの音程のずれもなく、とても良い感じのアンサンブルになっているのです。
その時、わかりました。Nさんは、私のガンバの音を聴いて、それにご自分のリコーダーの音を合わせてくれたのだと。(そして、ついでに言えば、私自身の音程もそれほど悪いわけではなかったのだと。)
つまり二つの楽器が、どちらが正しいとか正しくないとかいうことではなくて、両者の音程がずれていたら、どちらも正しくないように聞こえるのですね。
もっとも、聴いている人は、たいてい高音楽器であるリコーダーの方に耳を傾けますので、両者がずれていると、リコーダーの方が正しくて、ガンバの方が正しくないように聞こえてしまうようで、その点、低音楽器は損ですが。
なお、アンサンブルに加わるもう一つの楽器、チェンバロは正しいはずだから、それを基準にして、チェンバロとずれている方が正しくないのだと判断できそうに思えるのですが、実際は、チェンバロの音というのは他の楽器の音とたいへん親和性が良くて、ちょっとずれていても合っているように聞こえるようです。ですからチェンバロを基準にして判断するのは、意外とむずかしいです。
(弦をはじく楽器は、どれも比較的音程のずれが目立ちにくいように思います。ギターやリュートなどがそうですが、弦楽器でも弓で弾くよりピチカートではじく方が音程のずれが目立ちにくいです。チェンバロはもちろん弦をはじく楽器です。)
その後、別の場でも同じような体験をしました。あるリコーダークラブの練習会があって、プロの先生がレッスンに来られるということで、私はガンバで、伴奏の通奏低音として参加しました。
その時、先生は生徒さんの演奏を聴いたあと、そこはこう吹いた方がいいですよと、その一部を自分で吹かれます。私は、生徒さんが吹くときも先生が吹くときも、同じように伴奏をするのですが、あとで録音を聴いてみると、先生の伴奏をしている時の方が、ずっと上手に聞こえるのです。
というわけで、アンサンブルにおいて音程の良い悪いというのは、一つの楽器の絶対的な周波数が正しいかどうかということもさることながら、複数の楽器が相和しているかどうかが大事なのだと、(ある意味、当然のことを)遅ればせながら気付きました。
そしてそのためには、それぞれの奏者がお互いの音をよく聴いて、それに合わせようとしなければならないようです。ですから、他の人の音を聴く余裕、その違いを聴き分けられる耳、そしてそれに合わせるべく音程を調整する技術が必要になってきます。
上手な人というのは、これらのことができる人だと思いますが、達人になると、それが瞬時に自動的にできちゃうようです。
したがって、そういう人とアンサンブルすると、本当にこちらまで上手になったように聴こえて、うれしくなってしまいます。
指がよく回るとか、タンギングが速くできるとかいうのは、それはそれで素晴らしいことですが、アンサンブルにおいては、もっと大事なことがあるんだなあと、近頃思っています。
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バロック・アンサンブル随想(2)
2013-02-07
(この記事は、2011年10月にMIXIに投稿した記事の再録です。)
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バロックチェロについて
先日、神戸のホテルオークラのチャペルで古楽器によるコンサートがあったので、聴きに行ってきました。ルネサンスからバロックまで、いろんな曲が取り上げられましたが、トリはバッハのブランデンブルク協奏曲第4番でした。
リコーダーやヴァイオリンなどのソロ楽器だけでなく、合奏部も各パート一人のオリジナル編成で、チェロももちろん正真正銘のバロックチェロでした。
それを聴いていて、何年か前、あるアマチュアアンサンブルのコンサートを聴いたときのことを思い出しました。
神戸の布引にある「森のホール」という木造りの、わりと小さなホールでのコンサートだったのですが、その中で、クヴァンツのトリオソナタハ長調が演奏されました。
ピッチはA=440のモダンピッチで、編成はアルトリコーダー2本、チェンバロ、チェロ(モダン楽器)でした。
そこで私は、たいへんな違和感を感じました。
リコーダーとチェンバロは、モダンピッチとは言え、楽器のつくりはバロック時代と変わっていません。
この2者(3楽器)に対して、モダンチェロだけ“音”が違うのです。音の性質というか、音の有り様(ありよう)というか、そういうものが違うのです。
言葉では、うまく表現できないかもしれませんが、あえて表現してみますと、リコーダーとチェンバロは、それらの楽器から発せられる音が、先ずその周囲の半径2メートルくらいの空気を振動させて、その空気の振動がホール全体に広がるとともに、聴き手の耳に届くという感じ。
それに対してモダンチェロの方は、楽器で作られた音が、ストレートに放射され、直接音として、そのまま聴き手に届くという感じ。
いうなれば、リコーダーとチェンバロは、それらの楽器が震わせた、空気の震えを聴いている感じなのに対して、モダンチェロは楽器から発せられた音波そのものを聴いている感じとでもいえましょうか。
そういう音の性質あるいは有り様が違っているのに、それらが一つの曲において同じ空間で鳴っていることが、私に大きな違和感を感じさせました。
先日のコンサートでは、すべてがバロック楽器でしたから、そのような違和感はなく、チェロなどは、(ヴィヴァルディのチェロソナタも演奏されましたが、)こんなに大人しく、むしろ慎み深い楽器なんだな、という思いでした。
チェロというと、私にはドヴォルザークのチェロ協奏曲とか、ベートーヴェンのチェロソナタ3番とか、あるいはカザルスの弾くバッハの無伴奏などの印象が強くて、押しの強い、これでもか、どうだまいったか、というようなイメージを持ってしまうのですが、少なくともバロックチェロに関する限り、それとは正反対とは言わないまでも、かなりちがった音楽性を持った楽器だと思います。
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バロックチェロについて
先日、神戸のホテルオークラのチャペルで古楽器によるコンサートがあったので、聴きに行ってきました。ルネサンスからバロックまで、いろんな曲が取り上げられましたが、トリはバッハのブランデンブルク協奏曲第4番でした。
リコーダーやヴァイオリンなどのソロ楽器だけでなく、合奏部も各パート一人のオリジナル編成で、チェロももちろん正真正銘のバロックチェロでした。
それを聴いていて、何年か前、あるアマチュアアンサンブルのコンサートを聴いたときのことを思い出しました。
神戸の布引にある「森のホール」という木造りの、わりと小さなホールでのコンサートだったのですが、その中で、クヴァンツのトリオソナタハ長調が演奏されました。
ピッチはA=440のモダンピッチで、編成はアルトリコーダー2本、チェンバロ、チェロ(モダン楽器)でした。
そこで私は、たいへんな違和感を感じました。
リコーダーとチェンバロは、モダンピッチとは言え、楽器のつくりはバロック時代と変わっていません。
この2者(3楽器)に対して、モダンチェロだけ“音”が違うのです。音の性質というか、音の有り様(ありよう)というか、そういうものが違うのです。
言葉では、うまく表現できないかもしれませんが、あえて表現してみますと、リコーダーとチェンバロは、それらの楽器から発せられる音が、先ずその周囲の半径2メートルくらいの空気を振動させて、その空気の振動がホール全体に広がるとともに、聴き手の耳に届くという感じ。
それに対してモダンチェロの方は、楽器で作られた音が、ストレートに放射され、直接音として、そのまま聴き手に届くという感じ。
いうなれば、リコーダーとチェンバロは、それらの楽器が震わせた、空気の震えを聴いている感じなのに対して、モダンチェロは楽器から発せられた音波そのものを聴いている感じとでもいえましょうか。
そういう音の性質あるいは有り様が違っているのに、それらが一つの曲において同じ空間で鳴っていることが、私に大きな違和感を感じさせました。
先日のコンサートでは、すべてがバロック楽器でしたから、そのような違和感はなく、チェロなどは、(ヴィヴァルディのチェロソナタも演奏されましたが、)こんなに大人しく、むしろ慎み深い楽器なんだな、という思いでした。
チェロというと、私にはドヴォルザークのチェロ協奏曲とか、ベートーヴェンのチェロソナタ3番とか、あるいはカザルスの弾くバッハの無伴奏などの印象が強くて、押しの強い、これでもか、どうだまいったか、というようなイメージを持ってしまうのですが、少なくともバロックチェロに関する限り、それとは正反対とは言わないまでも、かなりちがった音楽性を持った楽器だと思います。
バロック・アンサンブル随想(1)
2013-02-07
(この記事は、2011年10月にMIXIに投稿した記事の再録です。)
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私は1か月に1,2回、仲間とバロックアンサンブルを楽しんでいます。そして、その様子は必ずICレコーダーで録音して、後で聴いています。そうすると、演奏しているときは分からなかったいろいろなことが、わかります。
先日の集まりは、5人でした。いろいろな作曲家のトリオ・ソナタを中心に6曲演奏して楽しみましたが、私はその内2曲をフラウト・トラヴェルソ、3曲をヴィオラ・ダ・ガンバで参加しました。
今回の録音で、私が自分のガンバの演奏で感じたのは、各曲の各楽章の最後の音が、荒っぽくなっているということで、それが耳につきました。
私がガンバを弾いた3曲12楽章のうち、8つもの楽章が最後の音が開放弦で終わるのですが、それが、いずれも丁寧さを欠いていました。開放弦の音は、ただでさえ荒くなりがちなのに、最後まで弾けたという開放感というか安心感のために、ぞんざいになってしまったのだと思います。最後の音まで、というより最後の音こそ、最も丁寧に弾かなければならないと反省しました。
それといつも思うのですが、自分ではかなり小さい音で弾いているつもりでも、録音を聴くと、意外と大きな音で聞こえます。これはバロック音楽では低弦の音とチェンバロの左手が重なっているということもあるのだと思いますが、それを差し引いても、意外とよく聞こえています。
以前に、一緒にアンサンブルをした人が、私のガンバについて、「そんなに強く弾かなくても、ちゃんと聞こえていますよ。」とおっしゃったことがあります。それから、音量には気をつけるようにしているのですが、それでも興に乗ってくると、ついつい弾きすぎてしまうことがあります。
そもそも、バロック室内楽の低弦のパート譜には、よく「Violoncello o Viola da gamba ad lib.」と書いてあります。これは「チェロまたはガンバは、ご自由に」(つまり合奏に加わっても加わらなくても、どちらでもよい)ということですが、「Cembalo ad lib.」とは決して書かれていません。つまり、チェンバロは絶対必要だけど、低弦は、あってもなくても、どっちでもよいということです。であるならば、低弦が入って、通奏低音が、より良くなるのでなければ、意味がないわけです。
では、より良くなるというのは、どうなることかというと、通奏低音の主役であるチェンバロを補助して、その表現を豊かにすることにあると思います。
チェンバロは鍵盤楽器ですから、どうしても一旦出た音は時間とともに直線的に減衰するわけで、しかもその発音機構上、強弱や音色の変化をつけにくいという特性があります。私は、そのことが鍵盤楽器の欠点とか弱点であるとは必ずしも思いませんが、曲想によっては、何らかの変化がほしい場合があると思います。
それを助けるのが低弦の役割で、私個人的には、低弦が入ることによって、あたかもチェンバロの低音(左手)の音が長く伸びたり、自由な強弱をつけたり、音色や表情の変化をつけたりしているように聞こえるというのが理想だと思っています。
まあ、なかなか理想通りのことはできませんが、すこしでもそれに近づけることができればと思っています。
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私は1か月に1,2回、仲間とバロックアンサンブルを楽しんでいます。そして、その様子は必ずICレコーダーで録音して、後で聴いています。そうすると、演奏しているときは分からなかったいろいろなことが、わかります。
先日の集まりは、5人でした。いろいろな作曲家のトリオ・ソナタを中心に6曲演奏して楽しみましたが、私はその内2曲をフラウト・トラヴェルソ、3曲をヴィオラ・ダ・ガンバで参加しました。
今回の録音で、私が自分のガンバの演奏で感じたのは、各曲の各楽章の最後の音が、荒っぽくなっているということで、それが耳につきました。
私がガンバを弾いた3曲12楽章のうち、8つもの楽章が最後の音が開放弦で終わるのですが、それが、いずれも丁寧さを欠いていました。開放弦の音は、ただでさえ荒くなりがちなのに、最後まで弾けたという開放感というか安心感のために、ぞんざいになってしまったのだと思います。最後の音まで、というより最後の音こそ、最も丁寧に弾かなければならないと反省しました。
それといつも思うのですが、自分ではかなり小さい音で弾いているつもりでも、録音を聴くと、意外と大きな音で聞こえます。これはバロック音楽では低弦の音とチェンバロの左手が重なっているということもあるのだと思いますが、それを差し引いても、意外とよく聞こえています。
以前に、一緒にアンサンブルをした人が、私のガンバについて、「そんなに強く弾かなくても、ちゃんと聞こえていますよ。」とおっしゃったことがあります。それから、音量には気をつけるようにしているのですが、それでも興に乗ってくると、ついつい弾きすぎてしまうことがあります。
そもそも、バロック室内楽の低弦のパート譜には、よく「Violoncello o Viola da gamba ad lib.」と書いてあります。これは「チェロまたはガンバは、ご自由に」(つまり合奏に加わっても加わらなくても、どちらでもよい)ということですが、「Cembalo ad lib.」とは決して書かれていません。つまり、チェンバロは絶対必要だけど、低弦は、あってもなくても、どっちでもよいということです。であるならば、低弦が入って、通奏低音が、より良くなるのでなければ、意味がないわけです。
では、より良くなるというのは、どうなることかというと、通奏低音の主役であるチェンバロを補助して、その表現を豊かにすることにあると思います。
チェンバロは鍵盤楽器ですから、どうしても一旦出た音は時間とともに直線的に減衰するわけで、しかもその発音機構上、強弱や音色の変化をつけにくいという特性があります。私は、そのことが鍵盤楽器の欠点とか弱点であるとは必ずしも思いませんが、曲想によっては、何らかの変化がほしい場合があると思います。
それを助けるのが低弦の役割で、私個人的には、低弦が入ることによって、あたかもチェンバロの低音(左手)の音が長く伸びたり、自由な強弱をつけたり、音色や表情の変化をつけたりしているように聞こえるというのが理想だと思っています。
まあ、なかなか理想通りのことはできませんが、すこしでもそれに近づけることができればと思っています。