おもしろい家を作るということ(つまらん!おまえの・・・はつまらん!)
2013-05-23
以前、何のCMだったか、縁側のようなところで中年息子役の岸部一徳が、なんだかうだうだと蘊蓄を垂れると、横にすわっていた老父役の大滝秀治が「つまらん!おまえの話はつまらん!」と一喝するコマーシャルがあった。
けっこう印象的で、私はおかしがるとともに、これって家のCMに使えるぞと思ったものだ。
すなわち、息子が新居を建てて、訪れた老父に、うだうだと蘊蓄を垂れて自慢しかけると、父親が「つまらん!おまえの家はつまらん!」と一喝するのだ。
これはなかなかいけるぞと思ったが、そんなコマーシャルは現れなかった。当たり前か。
ところで私の父は56歳で亡くなったので(私はその時28歳)あの岸部と大滝のような中年息子と老父という関係を持つことはできなかった。
しかし、もしもっと長生きして、私の設計した家を見て「つまらん!おまえの設計はつまらん!」と言ったとしたら、それもなかなかいいものだったかもしれない。
(もっともその役は、今では私の妻-パートナーの安田倫子-が引き受けることになったのだが)
私がそんなことを考えたりするのは、やはり私は、「家というものは、つまらないものであってはつまらない、おもしろいものでなくては」と思うからだ。
でも「おもしろい」と言うとよく誤解されるのは、それが「奇抜」ということと同義と受け取られることだ。
「おもしろい」というのは「奇抜」とは違う。
他人から見れば「奇抜」に見えたとしても、建て主(施主)本人にとっては決してそうではなく、まじめに自分の思いを実現させていった結果だ。
もうひとつ「ひとりよがり」の類似語と受け取られることもある。
これについては、その「おもしろさ」が建て主の思いを無視した設計者のひとりよがりであってはいけないのだけれど、建て主本人は大いに「ひとりよがり」であっていいと私は思っている。
ただ、「おもしろい」ということが「奇抜」とか「ひとりよがり」に陥らないためには、そこに品位というものが存在するかどうかによる。この点は重要だ。
たとえば絵画ならモネにしてもルノアールにしても、音楽ならブラームスにしてもチャイコフスキーにしても、それらの作品は当時としては「奇抜」とか「ひとりよがり」と感じられたかもしれない。しかしそれが長い年月に耐えて、人の心を癒す大切でかけがえのないものとして残ったのは、そこに品位というものがしっかりと保持されていたからである。
それは住まいの設計についても同様で、いつまでも住み手の心に働きかけ、癒す力を持ち、かけがえのないものになるためには、品位が保持されていることが重要だ。
私の言う「おもしろい」ということには、必ずその奥に品位ということが存在していることを前提としている。
さて、ではどういう家が「つまらない」かというと、それは建売住宅とかハウスメーカーの住宅とかが、その典型である。つまり万人向けの、あたらずさわらず、可もなく不可もない家のことだ。(ほんとうは不可のことも多いので、それは私の拙文「ここがおかしい日本の住まい」をお読みいただきたい)
しかしそれなら建築家(設計事務所)が設計した家は「おもしろい」のかというと、そうとも言えない。
皆さんも感じておられるかもしれないが、設計事務所が建てた家にも、実に画一的であり、おもしろみに欠けるものが多い。
その特徴としては、「ストイック」(禁欲的)と「気取り」というの二つの傾向があげられよう。
私の言う「おもしろい」というのは、これらに対するアンチテーゼでもある。
すなわち、もっと豊かで、楽しくて、大胆で、思いっきりがよくて、心の解放をもたらすような家ということだ。
但し、いま心の解放と言ったが、それは開放的な空間と作るいうことではない。
私がこれまで作った家には、音楽室、地下室、屋根裏部屋などがある。それらは閉鎖的空間であるが、その中にいることが心の解放をもたらすことになりうる。
と、ここまで、うだうだと書いてきたが、読んだ方は「つまらん!おまえの話はつまらん!」と仰っているかも知れない。その確率は70%くらいあるのではないかと思う。
そこで私は、話はこれくらいにして、これまで設計してきたいろんな家の中から、私の言う「おもしろい」例を、順次ご紹介していくことにしよう。
(次回に続く)
けっこう印象的で、私はおかしがるとともに、これって家のCMに使えるぞと思ったものだ。
すなわち、息子が新居を建てて、訪れた老父に、うだうだと蘊蓄を垂れて自慢しかけると、父親が「つまらん!おまえの家はつまらん!」と一喝するのだ。
これはなかなかいけるぞと思ったが、そんなコマーシャルは現れなかった。当たり前か。
ところで私の父は56歳で亡くなったので(私はその時28歳)あの岸部と大滝のような中年息子と老父という関係を持つことはできなかった。
しかし、もしもっと長生きして、私の設計した家を見て「つまらん!おまえの設計はつまらん!」と言ったとしたら、それもなかなかいいものだったかもしれない。
(もっともその役は、今では私の妻-パートナーの安田倫子-が引き受けることになったのだが)
私がそんなことを考えたりするのは、やはり私は、「家というものは、つまらないものであってはつまらない、おもしろいものでなくては」と思うからだ。
でも「おもしろい」と言うとよく誤解されるのは、それが「奇抜」ということと同義と受け取られることだ。
「おもしろい」というのは「奇抜」とは違う。
他人から見れば「奇抜」に見えたとしても、建て主(施主)本人にとっては決してそうではなく、まじめに自分の思いを実現させていった結果だ。
もうひとつ「ひとりよがり」の類似語と受け取られることもある。
これについては、その「おもしろさ」が建て主の思いを無視した設計者のひとりよがりであってはいけないのだけれど、建て主本人は大いに「ひとりよがり」であっていいと私は思っている。
ただ、「おもしろい」ということが「奇抜」とか「ひとりよがり」に陥らないためには、そこに品位というものが存在するかどうかによる。この点は重要だ。
たとえば絵画ならモネにしてもルノアールにしても、音楽ならブラームスにしてもチャイコフスキーにしても、それらの作品は当時としては「奇抜」とか「ひとりよがり」と感じられたかもしれない。しかしそれが長い年月に耐えて、人の心を癒す大切でかけがえのないものとして残ったのは、そこに品位というものがしっかりと保持されていたからである。
それは住まいの設計についても同様で、いつまでも住み手の心に働きかけ、癒す力を持ち、かけがえのないものになるためには、品位が保持されていることが重要だ。
私の言う「おもしろい」ということには、必ずその奥に品位ということが存在していることを前提としている。
さて、ではどういう家が「つまらない」かというと、それは建売住宅とかハウスメーカーの住宅とかが、その典型である。つまり万人向けの、あたらずさわらず、可もなく不可もない家のことだ。(ほんとうは不可のことも多いので、それは私の拙文「ここがおかしい日本の住まい」をお読みいただきたい)
しかしそれなら建築家(設計事務所)が設計した家は「おもしろい」のかというと、そうとも言えない。
皆さんも感じておられるかもしれないが、設計事務所が建てた家にも、実に画一的であり、おもしろみに欠けるものが多い。
その特徴としては、「ストイック」(禁欲的)と「気取り」というの二つの傾向があげられよう。
私の言う「おもしろい」というのは、これらに対するアンチテーゼでもある。
すなわち、もっと豊かで、楽しくて、大胆で、思いっきりがよくて、心の解放をもたらすような家ということだ。
但し、いま心の解放と言ったが、それは開放的な空間と作るいうことではない。
私がこれまで作った家には、音楽室、地下室、屋根裏部屋などがある。それらは閉鎖的空間であるが、その中にいることが心の解放をもたらすことになりうる。
と、ここまで、うだうだと書いてきたが、読んだ方は「つまらん!おまえの話はつまらん!」と仰っているかも知れない。その確率は70%くらいあるのではないかと思う。
そこで私は、話はこれくらいにして、これまで設計してきたいろんな家の中から、私の言う「おもしろい」例を、順次ご紹介していくことにしよう。
(次回に続く)
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