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建築家であり 音楽愛好家でもある 私の雑記帳

「桃花源記」の素敵なアニメ

先日、私の愛読書のなかで真っ先に挙げた、陶淵明の「桃花源記」
ご存じのとおり、桃源郷の物語で、ある漁師が小舟で途に迷って川を上流の方に漕ぎ進んで行ったら、桃の花がたくさん咲いているところの奥に見知らぬ村があって・・・というお話。
不思議と心の琴線に触れるものがあるんですよね。
これについて、とても素敵はアニメ動画がYOUTUBEにアップされているので、ご紹介します。

toukagenki.jpg
http://www.youtube.com/watch?v=ZHPQchQgTVc

つげ義春が芸術新潮に!

前回の記事の「私の愛読書」の中で、つげ義春の漫画をあげた。それについては、以前にこのブログでも書いたことがあるが(2009/11/01,2009/11/02)、なんとなんと、あの「芸術新潮」の本年1月号が、つげ義春特集なのであった。
そして私の好きな名作「紅い花」が全編原画によって掲載されている。
すごいじゃないか、ついにやったね、つげ義春!

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この表紙になっているのは「ねじ式」という漫画の一場面。
「ねじ式」は、当時は他に例を見ないシュールな内容で、作者の代表作としてしばしば採り上げられるのもわからないではないが、私は「紅い花」や「無能の人」といった作品のほうが好き。

私の参加しているバロックアンサンブルの演奏

私は趣味として、友人たちとバロック音楽の演奏をしています。
去年の11月に、神戸の聖愛教会の礼拝堂で行なった小コンサートの録音を、仲間の一人がYOUTUBEにアップしてくれました。
4人のメンバーによるアンサンブルなのですが、私はヴィオラ・ダ・ガンバという、バロック時代の低音の弦楽器(チェロのような楽器)を弾いています。あとのメンバーは、二人がフラウト・トラヴェルソ(バロック時代の木製のフルート)、もう一人はチェンバロ(鍵盤楽器)です。
チェンバロを弾いている人はピアノの先生をしていますが、ほかの3人はアマチュアです。そのわりには、なかなかいい演奏になってるかなとも思いますので、ぜひお聴きください。
よろしくお願いいたします。

https://www.youtube.com/playlist?list=PLsB_03I-p2BI0me6rEj_ADpKZznE6DDu1

美文字ブーム

ここのところ美文字ブームだそうですね。今日の新聞(読売)に載っていました。

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(画像をクリックすると拡大表示されます)

実は私も1か月くらい前から「美文字練習帳」というのを買って練習しているんです。
一応1か月で一通り終わって身に付くような練習プログラムになっているのですが、まだ半分くらいしか進んでおらず、身に付きつつあるのかどうかも、よくわかりません。

でも私は、今日新聞を読むまで、世間がそのようなブームであることは知りませんでした。
私が文字を練習しようという気になったのは、3か月ほど前、ふとしたことで万年筆を手に入れたのが、そもそものきっかけです。それまでボールペンで書いていた日記を万年筆で書くようになったのですが、そうすると書くこと自体がすごく楽しくなって、そのうちに、もっと美しい字で書けたらいいなあと思うようになりました。それで練習を始めたのです。

ですから世間のブームに影響されたわけではなくて、自分が興味を持ったことが、気が付いたら世間でもブームになっていたというわけです。
私、そんなことがわりとあるような気がするんですが、皆さんはそんなことありませんか。
これって、カール・ユングの言う、集合的無意識のなせることなのかなあと思ったりします。

ともあれ、万年筆を使うようになって、字を書くことがこんなに楽しいということを、初めて知りました。
日記の量が、ボールペンで書いていた時の3倍くらいになりました。

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(私のお気に入りの万年筆たち。あれよあれよという間に、こんなに増えてしまいました。でも1本1,000円から、高いものでも1万円まで。モンブランやペリカンは持ってません)

おもしろい家の例(その2) 「屋根裏の隠れ部屋」

屋根裏というのは、もともとそこに空間が存在するので、そこに部屋をしつらえても、ほとんどお金がかかりません。
これは絶対に使わなければ損ですので、私の設計室では大いに利用するようにしています。
むしろ屋根裏を部屋として使うという前提で、屋根の形を決めたりすることが多いです。

当然のことながら天井は低いですし、斜めです。窓も十分に取れないこともあります。
でもそんな空間が、ことのほか面白いんですよね。
落ち着くというか。籠る楽しみ。

もちろん明るくてオープンな空間もいいんですが、人間って必ず籠る習性も持っているので、家中どこもかしこも明るいオープンだと、かえって安らげないと思います。
だから、籠れる空間って、私は本当は大切なものだと思うんです。
せっかく一戸建て住宅を建てるんだったら、そんなスペースを作らない手はありません。

で、そんな例をいくつか。



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これは、超オーソドックスな屋根裏部屋。
でもガラスブロックの小窓がいいでしょう。
満月の晩など、ここから入ってくる月明かりで、この空間は不思議な雰囲気を醸し出します。



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この屋根裏部屋は、前に屋上を設けていて、そこに出入りができます。
明るいですし、しかもプライバシーは十分で、個人の書斎などとして、一般室と同じくらいに快適に、しかも落ち着いて使えます。



@子供室ロフトa

これは、部屋自体としては狭いのですが、屋根が形状を利用して立体的な構成を行っています。
これまた、なにかおもしろい使い方ができそうだと思いませんか。



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これは「隠れ家」へ通じる階段の例。
屋根裏部屋に行くためには、どうしても階段が必要になりますが、できるだけ場所をとらないようにするために、コンパクトにして、ちょっと急な勾配にすることが多いです。でもそれが、かえって「隠れ家」へ通じるわくわく感を高めることになるんです。



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これは何?・・・秘密です。

おもしろい家の例(その1) 「部屋の中の狭い部屋」

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なんだ、これは。とお思いでしょうが、これは部屋の中の部屋です。
施主さん(Aさん)の個人スペースなのですが、部屋の中にあえて小さな部屋を作っています。
そしてロールスクリーンで、まるで昔の「御簾の内」のように仕切られるようになっています。
(写真では、一部だけ巻き上げています。)

念のため申し上げておきますが、これはれっきとしたAさんご本人からの要望です。
Aさんは、狭い部屋にこもって、本を読んだり、寝転がったり、考え事をしたりしたかったのです。
それができるスぺースが、彼の家の第一要求でした。(ちなみに彼は、医師です。)
これは変でしょうか?私は全然変だとは思いません。きわめてまっとうで、共感できる要望ではないでしょうか。
そしてこのような部屋ができました。

部屋は広いのが良くて、天井が高いのが良くて、明るいのが良い、という世間の常識(こんなことは、いわれなき常識で、真実でもなんでもありませんが)、それに対するアンチテーゼのようなこの空間は、しかしクライアントにとっては、かけがえのない居場所です。
この空間は家の一部でありながら、Aさんにとっては、全世界に対峙して存在しています。

おもしろい家を作るということ(つまらん!おまえの・・・はつまらん!)

以前、何のCMだったか、縁側のようなところで中年息子役の岸部一徳が、なんだかうだうだと蘊蓄を垂れると、横にすわっていた老父役の大滝秀治が「つまらん!おまえの話はつまらん!」と一喝するコマーシャルがあった。
けっこう印象的で、私はおかしがるとともに、これって家のCMに使えるぞと思ったものだ。
すなわち、息子が新居を建てて、訪れた老父に、うだうだと蘊蓄を垂れて自慢しかけると、父親が「つまらん!おまえの家はつまらん!」と一喝するのだ。
これはなかなかいけるぞと思ったが、そんなコマーシャルは現れなかった。当たり前か。

ところで私の父は56歳で亡くなったので(私はその時28歳)あの岸部と大滝のような中年息子と老父という関係を持つことはできなかった。
しかし、もしもっと長生きして、私の設計した家を見て「つまらん!おまえの設計はつまらん!」と言ったとしたら、それもなかなかいいものだったかもしれない。
(もっともその役は、今では私の妻-パートナーの安田倫子-が引き受けることになったのだが)

私がそんなことを考えたりするのは、やはり私は、「家というものは、つまらないものであってはつまらない、おもしろいものでなくては」と思うからだ。

でも「おもしろい」と言うとよく誤解されるのは、それが「奇抜」ということと同義と受け取られることだ。
「おもしろい」というのは「奇抜」とは違う。
他人から見れば「奇抜」に見えたとしても、建て主(施主)本人にとっては決してそうではなく、まじめに自分の思いを実現させていった結果だ。

もうひとつ「ひとりよがり」の類似語と受け取られることもある。
これについては、その「おもしろさ」が建て主の思いを無視した設計者のひとりよがりであってはいけないのだけれど、建て主本人は大いに「ひとりよがり」であっていいと私は思っている。

ただ、「おもしろい」ということが「奇抜」とか「ひとりよがり」に陥らないためには、そこに品位というものが存在するかどうかによる。この点は重要だ。

たとえば絵画ならモネにしてもルノアールにしても、音楽ならブラームスにしてもチャイコフスキーにしても、それらの作品は当時としては「奇抜」とか「ひとりよがり」と感じられたかもしれない。しかしそれが長い年月に耐えて、人の心を癒す大切でかけがえのないものとして残ったのは、そこに品位というものがしっかりと保持されていたからである。

それは住まいの設計についても同様で、いつまでも住み手の心に働きかけ、癒す力を持ち、かけがえのないものになるためには、品位が保持されていることが重要だ。
私の言う「おもしろい」ということには、必ずその奥に品位ということが存在していることを前提としている。

さて、ではどういう家が「つまらない」かというと、それは建売住宅とかハウスメーカーの住宅とかが、その典型である。つまり万人向けの、あたらずさわらず、可もなく不可もない家のことだ。(ほんとうは不可のことも多いので、それは私の拙文「ここがおかしい日本の住まい」をお読みいただきたい)

しかしそれなら建築家(設計事務所)が設計した家は「おもしろい」のかというと、そうとも言えない。
皆さんも感じておられるかもしれないが、設計事務所が建てた家にも、実に画一的であり、おもしろみに欠けるものが多い。
その特徴としては、「ストイック」(禁欲的)と「気取り」というの二つの傾向があげられよう。
私の言う「おもしろい」というのは、これらに対するアンチテーゼでもある。
すなわち、もっと豊かで、楽しくて、大胆で、思いっきりがよくて、心の解放をもたらすような家ということだ。

但し、いま心の解放と言ったが、それは開放的な空間と作るいうことではない。
私がこれまで作った家には、音楽室、地下室、屋根裏部屋などがある。それらは閉鎖的空間であるが、その中にいることが心の解放をもたらすことになりうる。


と、ここまで、うだうだと書いてきたが、読んだ方は「つまらん!おまえの話はつまらん!」と仰っているかも知れない。その確率は70%くらいあるのではないかと思う。
そこで私は、話はこれくらいにして、これまで設計してきたいろんな家の中から、私の言う「おもしろい」例を、順次ご紹介していくことにしよう。

(次回に続く)

バロック・アンサンブル随想(3)

(この記事は、2011年10月にMIXIに投稿した記事の再録です。)
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「バロック音楽随想」において(1)では音量について、(2)では音質について書きましたので、今回は音程のことについて書いてみたいと思います。

私がよく弾いているヴィオラ・ダ・ガンバという楽器は、ギターなどと同じように、フレットが付いています。ただ、ガンバのフレットは、ギターのように金属製で固定されたものではなく、ガット弦(不用になったものなど)をネックに巻いて結んであるだけですので、移動させることができ、自分で調整が可能です。
ではきちんと調整してあれば、正確な音程の演奏が可能かというと、そんなことはなくて、指の押さえる位置によって音程は変化します。(ガンバにフレットが付いているのは、開放弦の音色とそれ以外の音色を均一化するという役割が大きいです。)
すなわち、フレットの真上近くを押さえるのと、フレットから離れたところを押さえるのとでは、音程がかなり変わります。
ギターの場合は押さえる位置がずれても、音程はほとんど変化しませんよね。ですので、ガンバはギターとチェロの中間のような感じです。

で、私は仲間とのアンサンブルをする時は、たいていICレコーダーで録音をして、それをあとで聴くのですが、以前はどうも自分の音程が悪く、はずれていることが多いような気がして、そのことが気になって、ガンバを弾く時は、いつも電子チューナーを脇に置いて、時々それを横目で見ながら、自分の音程に狂いがないかチェックしていました。
ところが、そのように気をつけていても、あとで録音を聴くと、やっぱり音程がおかしいなあ、他の楽器(リコーダーやトラヴェルソ)とずれているなあと思うことがよくあって、それでともかく音程の良い演奏をすることが、自分の課題でした。

ところが忘れもしない今年(2011年)の3月31日、あるリコーダークラブのアンサンブルに参加して、何人かの方のお相手をしてガンバを弾いたのですが、その中にNさんというリーダー格の女性がいて、その人とテレマンのソナタをやりました。
そして帰ってから録音を聴いたのですが、このNさんとの演奏が、他の方々との演奏に比べて、段違いに私の音程が良く聞こえるのです。リコーダーとの音程のずれもなく、とても良い感じのアンサンブルになっているのです。
その時、わかりました。Nさんは、私のガンバの音を聴いて、それにご自分のリコーダーの音を合わせてくれたのだと。(そして、ついでに言えば、私自身の音程もそれほど悪いわけではなかったのだと。)

つまり二つの楽器が、どちらが正しいとか正しくないとかいうことではなくて、両者の音程がずれていたら、どちらも正しくないように聞こえるのですね。
もっとも、聴いている人は、たいてい高音楽器であるリコーダーの方に耳を傾けますので、両者がずれていると、リコーダーの方が正しくて、ガンバの方が正しくないように聞こえてしまうようで、その点、低音楽器は損ですが。

なお、アンサンブルに加わるもう一つの楽器、チェンバロは正しいはずだから、それを基準にして、チェンバロとずれている方が正しくないのだと判断できそうに思えるのですが、実際は、チェンバロの音というのは他の楽器の音とたいへん親和性が良くて、ちょっとずれていても合っているように聞こえるようです。ですからチェンバロを基準にして判断するのは、意外とむずかしいです。
(弦をはじく楽器は、どれも比較的音程のずれが目立ちにくいように思います。ギターやリュートなどがそうですが、弦楽器でも弓で弾くよりピチカートではじく方が音程のずれが目立ちにくいです。チェンバロはもちろん弦をはじく楽器です。)

その後、別の場でも同じような体験をしました。あるリコーダークラブの練習会があって、プロの先生がレッスンに来られるということで、私はガンバで、伴奏の通奏低音として参加しました。
その時、先生は生徒さんの演奏を聴いたあと、そこはこう吹いた方がいいですよと、その一部を自分で吹かれます。私は、生徒さんが吹くときも先生が吹くときも、同じように伴奏をするのですが、あとで録音を聴いてみると、先生の伴奏をしている時の方が、ずっと上手に聞こえるのです。

というわけで、アンサンブルにおいて音程の良い悪いというのは、一つの楽器の絶対的な周波数が正しいかどうかということもさることながら、複数の楽器が相和しているかどうかが大事なのだと、(ある意味、当然のことを)遅ればせながら気付きました。
そしてそのためには、それぞれの奏者がお互いの音をよく聴いて、それに合わせようとしなければならないようです。ですから、他の人の音を聴く余裕、その違いを聴き分けられる耳、そしてそれに合わせるべく音程を調整する技術が必要になってきます。
上手な人というのは、これらのことができる人だと思いますが、達人になると、それが瞬時に自動的にできちゃうようです。
したがって、そういう人とアンサンブルすると、本当にこちらまで上手になったように聴こえて、うれしくなってしまいます。

指がよく回るとか、タンギングが速くできるとかいうのは、それはそれで素晴らしいことですが、アンサンブルにおいては、もっと大事なことがあるんだなあと、近頃思っています。

バロック・アンサンブル随想(2)

(この記事は、2011年10月にMIXIに投稿した記事の再録です。)
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バロックチェロについて

先日、神戸のホテルオークラのチャペルで古楽器によるコンサートがあったので、聴きに行ってきました。ルネサンスからバロックまで、いろんな曲が取り上げられましたが、トリはバッハのブランデンブルク協奏曲第4番でした。
リコーダーやヴァイオリンなどのソロ楽器だけでなく、合奏部も各パート一人のオリジナル編成で、チェロももちろん正真正銘のバロックチェロでした。

それを聴いていて、何年か前、あるアマチュアアンサンブルのコンサートを聴いたときのことを思い出しました。
神戸の布引にある「森のホール」という木造りの、わりと小さなホールでのコンサートだったのですが、その中で、クヴァンツのトリオソナタハ長調が演奏されました。
ピッチはA=440のモダンピッチで、編成はアルトリコーダー2本、チェンバロ、チェロ(モダン楽器)でした。

そこで私は、たいへんな違和感を感じました。
リコーダーとチェンバロは、モダンピッチとは言え、楽器のつくりはバロック時代と変わっていません。
この2者(3楽器)に対して、モダンチェロだけ“音”が違うのです。音の性質というか、音の有り様(ありよう)というか、そういうものが違うのです。

言葉では、うまく表現できないかもしれませんが、あえて表現してみますと、リコーダーとチェンバロは、それらの楽器から発せられる音が、先ずその周囲の半径2メートルくらいの空気を振動させて、その空気の振動がホール全体に広がるとともに、聴き手の耳に届くという感じ。
それに対してモダンチェロの方は、楽器で作られた音が、ストレートに放射され、直接音として、そのまま聴き手に届くという感じ。

いうなれば、リコーダーとチェンバロは、それらの楽器が震わせた、空気の震えを聴いている感じなのに対して、モダンチェロは楽器から発せられた音波そのものを聴いている感じとでもいえましょうか。
そういう音の性質あるいは有り様が違っているのに、それらが一つの曲において同じ空間で鳴っていることが、私に大きな違和感を感じさせました。

先日のコンサートでは、すべてがバロック楽器でしたから、そのような違和感はなく、チェロなどは、(ヴィヴァルディのチェロソナタも演奏されましたが、)こんなに大人しく、むしろ慎み深い楽器なんだな、という思いでした。

チェロというと、私にはドヴォルザークのチェロ協奏曲とか、ベートーヴェンのチェロソナタ3番とか、あるいはカザルスの弾くバッハの無伴奏などの印象が強くて、押しの強い、これでもか、どうだまいったか、というようなイメージを持ってしまうのですが、少なくともバロックチェロに関する限り、それとは正反対とは言わないまでも、かなりちがった音楽性を持った楽器だと思います。

バロック・アンサンブル随想(1)

(この記事は、2011年10月にMIXIに投稿した記事の再録です。)
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私は1か月に1,2回、仲間とバロックアンサンブルを楽しんでいます。そして、その様子は必ずICレコーダーで録音して、後で聴いています。そうすると、演奏しているときは分からなかったいろいろなことが、わかります。

先日の集まりは、5人でした。いろいろな作曲家のトリオ・ソナタを中心に6曲演奏して楽しみましたが、私はその内2曲をフラウト・トラヴェルソ、3曲をヴィオラ・ダ・ガンバで参加しました。

今回の録音で、私が自分のガンバの演奏で感じたのは、各曲の各楽章の最後の音が、荒っぽくなっているということで、それが耳につきました。
私がガンバを弾いた3曲12楽章のうち、8つもの楽章が最後の音が開放弦で終わるのですが、それが、いずれも丁寧さを欠いていました。開放弦の音は、ただでさえ荒くなりがちなのに、最後まで弾けたという開放感というか安心感のために、ぞんざいになってしまったのだと思います。最後の音まで、というより最後の音こそ、最も丁寧に弾かなければならないと反省しました。

それといつも思うのですが、自分ではかなり小さい音で弾いているつもりでも、録音を聴くと、意外と大きな音で聞こえます。これはバロック音楽では低弦の音とチェンバロの左手が重なっているということもあるのだと思いますが、それを差し引いても、意外とよく聞こえています。
以前に、一緒にアンサンブルをした人が、私のガンバについて、「そんなに強く弾かなくても、ちゃんと聞こえていますよ。」とおっしゃったことがあります。それから、音量には気をつけるようにしているのですが、それでも興に乗ってくると、ついつい弾きすぎてしまうことがあります。

そもそも、バロック室内楽の低弦のパート譜には、よく「Violoncello o Viola da gamba ad lib.」と書いてあります。これは「チェロまたはガンバは、ご自由に」(つまり合奏に加わっても加わらなくても、どちらでもよい)ということですが、「Cembalo ad lib.」とは決して書かれていません。つまり、チェンバロは絶対必要だけど、低弦は、あってもなくても、どっちでもよいということです。であるならば、低弦が入って、通奏低音が、より良くなるのでなければ、意味がないわけです。

では、より良くなるというのは、どうなることかというと、通奏低音の主役であるチェンバロを補助して、その表現を豊かにすることにあると思います。
チェンバロは鍵盤楽器ですから、どうしても一旦出た音は時間とともに直線的に減衰するわけで、しかもその発音機構上、強弱や音色の変化をつけにくいという特性があります。私は、そのことが鍵盤楽器の欠点とか弱点であるとは必ずしも思いませんが、曲想によっては、何らかの変化がほしい場合があると思います。
それを助けるのが低弦の役割で、私個人的には、低弦が入ることによって、あたかもチェンバロの低音(左手)の音が長く伸びたり、自由な強弱をつけたり、音色や表情の変化をつけたりしているように聞こえるというのが理想だと思っています。

まあ、なかなか理想通りのことはできませんが、すこしでもそれに近づけることができればと思っています。

私の音楽趣味・・・バロック音楽を奏でる

 ピアニストの黒瀬紀久子さんは、私の小学校の同級生です。家も近所で、幼稚園も一緒でした。
 
 彼女は、多忙な演奏活動のかたわら、「NPO法人 クラシックファンのためのコンサート」を主宰していて、クラシック音楽の良質な演奏を、気軽に多くの人に聴いてもらう活動をしておられます。

 http://www.classicfan.jp

 その会の会報「花音(カノン)便り」の最新号に、私の拙分が載りましたので、それをここに転載させていただきます。

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私の音楽趣味・・・バロック音楽を奏でる

 私がクラシック音楽を好きになったのは、中学3年生の頃です。その頃、我が家で小さなステレオを買って、しばらくは歌謡曲などを聞いていたのですが、母がせっかくだからクラシックも聴いてみようと言い出して、三宮のレコード店に行って、なにも分からずに買ったのが、カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏するベートーヴェンの「運命」とシューベルトの「未完成」でした。そのレコードに私が期せずしてハマッてしまって、クラシックオタクになって現在に至っています。

 大学生の時は、大学の交響楽部に入って、チェロを弾いていましたが、その頃からバロック音楽が好きになり始めました。初めて聞いたバロック音楽は、バッハのブランデンブルク協奏曲で、ベートーヴェンやブラームスと違う、その軽やかな音楽にすっかり心惹かれてしまいました。そして、更にバロックに引き込まれることになったのは、ブリュッヘンがリコーダーを吹いて、レオンハルトやアーノンクールも加わったアンサンブルによるヴィヴァルディの協奏曲集でした。これがまた素晴らしくて、リコーダーの素朴で美しい音色に魅了されてしまって、木製のリコーダーを買ってきて自分でも練習し始めました。

 大学を卒業して、しばらくは大学の時の仲間と室内楽のグループを作ってチェロも弾いていましたが、ある日、自分たちで演奏した録音を聴いて、そのあまりのひどさにショックを受け、こりゃだめだと確信しました。(ヨハン・シュトラウスのワルツ「芸術家の生涯」が、まるで「星影のワルツ」か「芸者ワルツ」のように聞こえたのですから。)

 そうして自分で音楽を奏でることからは遠ざかってしまい、もっぱらレコード(CD)鑑賞に耽っていたのですが、10年くらい前に、少し思うところがあって、リコーダーを再び練習しはじめ、インターネットで知り合ったバロック音楽好きのアマチュア仲間たちとアンサンブルをするようになりました。そのうちに、私はフラウト・トラヴェルソ(バロックフルート)も吹くようになり、さらにヴィオラ・ダ・ガンバも弾くようになりました。今では、ヴィオラ・ダ・ガンバでバロックの室内楽の通奏低音を弾くことが無上の楽しみになっています。

 そうやって奏でる楽しみを再び手に入れたのですが、私は自分なりの不文律にしていることが一つあります。それは人前で演奏しないということです。アマチュアの中には、発表会的な場に出たり、幼稚園や老人ホームなどに出向いて行って演奏を聴かせる人が、けっこういます。それはそれでかまいませんが、私はそれはしたくないのです。人に聴かせる音楽を奏でるのは、相手がたとえ子供や老人であっても、それはプロの仕事だと思っています。アマチュアは、純粋に自分のために音楽をするべきだというのが私のポリシーだからです。ですから、私の参加しているアンサンブルも、人前での演奏は一切しません。仲間で集まって、その時に演奏する、それが私たちにとっての一期一会の本番であると心得ています。

 でもプロの優れた方々の演奏は、私もたくさん聴きたいので、「クラシックファンためのコンサート」は、とても素晴らしい企画だと思います。そして願わくは、もっとバロック音楽の演奏会があればいいなあと思っています。

エレベーターの開閉表示

昔からズーと気になっていることがあって、それは何かというとエレベーターの押しボタンの開閉表示なのである。
下の写真のどちらが「開」でどちらが「閉」かというと、左が「開」で右が「閉」である。なぜかというと、マークの三角は矢印を表わしていて、それが左のボタンは外を向いており、右のボタンは内を向いているから、左が「開」で右が「閉」という理屈である。

エレベーター

しかし、私はとっさの時に、右が「開」で左が「閉」に見えてしまう。ドアが閉まりかけていて、誰かが乗ろうと走ってきたときなんかに、開けてあげようと思って、とっさに右のマークのボタン(つまり「閉」)を押してしまうことがある。皆さんは、そんなことはないだろうか。

これをある友人に言ったら、「そうだなあ。たしかに右のマークの方が発散的だよなあ。」と言った。(彼はカメラの設計をしている。カメラにも、マークのついた押しボタンがいろいろある。)

そうなのだ。明らかに右ボタンのマークの方が、“開く”という感じがある。つまり、三角は矢印で・・・という“理屈”と、視覚的な“感覚”とが、齟齬をきたしているのだ。
私は、これはエレベーターという、安全性を重視しなければならない設備において、大きなデザインミスではないかと思う。

久しぶりに政権交代もあったことだし(関係ないか)、この際、エレベータメーカーには、理屈と感覚の一致した、分かりやすくて間違いの起らない新しいマークを考案してもらいたい。

地下って暖房してるの?

先日、友人と地下駐車場に入ったら、その人が「駐車場を暖房するなんて、もったいないなあ」と言いました。
いえいえ、違うのです。暖房などしていないのです。地下は冬でも暖かいのです。
それを友人に説明したら、へえそうなのかと感心していました。

そういえば以前に、別の人と地下鉄の駅に降りていったら、やはりその人が、「地下鉄の駅は暖房しているから暖かくていい。」と言ったことがあります。
決して鉄道会社は駅のプラットフォームまで暖房したりしていません。先ほどの駐車場と同様に、地下は冬でも暖かいのです。

逆に夏は地上より涼しくなります。
地下は、まさに今はやりの省エネ・エコ空間なのです。

(私の設計室のHPの中の 「地下室のすすめ」 もご覧ください。)

私の趣味・・・音楽アンサンブル

建築のことばかり書いていると、どうしも内容が堅くなってしまいますので、今日は私の趣味について書いてみたいと思います。

私は、いくつかの趣味を持っているのですが、一番長続きしているのが、音楽の演奏です。
アマチュアのバロック音楽のアンサンブルに参加していて、ヴィオラ・ダ・ガンバ、フラウト・トラヴェルソ、ブロックフレーテといった楽器を演奏しています。
こう言っても、どんな楽器がわからない方も多いと思いますので、写真をお目にかけます。

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テーブルに立てかけてある弦楽器が、ヴィオラ・ダ・ガンバです。チェロと同じように脚の間にはさんで、弓で弾きます。音も、チェロに似ています。

テーブルの上に置いてある3つの楽器の内、左側の2本が、フラウト・トラヴェルソです。横笛で、要するにバロック時代のフルートです。これが、近代になっていろいろ改変されて、現在の金属製のフルートになりました。

右側の1本は、ブロックフレーテです。これは縦笛で、小中学校で音楽の時間に吹いているアルトリコーダー基本的には同じものですが、バロック時代には、これも一般的な楽器でした。

私の参加しているアンサンブルでは、こういった楽器に、鍵盤楽器のチェンバロ(といっても本物ではなく、キーボードをチェンバロ音で使用します)が加わって、数人で合奏を行います。

曲は、バロック時代の室内楽曲。作曲者名で言うと、バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ、テレマン等などが有名どころです。

月に1,2回集まって合奏していますが、実は昨日もこのアンサンブルの例会があり、約4時間、8曲を演奏しました。毎回それくらいするので、最後の方になると、私などいささか疲れてきて集中力散漫の状態になるのですが、それでもたいへん楽しい一時です。

そしてこの演奏は、メンバーの一人がすべて録音してくれていて、それを後でCD-Rに焼いて渡してくれます。
それを仕事で疲れた時などに聴くのも、また楽しいです。
決して上手ではなくて、特に私など、よくミスしたりもするのですが、不思議と自分たちの演奏というのは何度聞いても飽きないですね。
(ご希望の方には、メンバーに内緒で、ちょっとだけお聞かせしますので、おっしゃってください。)

また気が向いたら、今回のように、時々趣味的なことも書かせていただくかもしれませんので、よろしくお願いいたします。

ピアニスト黒瀬紀久子さんのコンサート

先日、ピアニスト黒瀬紀久子さんのコンサートを聴きにいった。
彼女は、実は子供のころ、私と家がすぐ近くで、同い年なので、幼稚園と小学校も同級生なのである。
黒瀬さんは、NPO法人「クラシックファンのためのコンサート」を主宰されていて、毎月大阪で市民のための無料コンサートを開いておられる。

先日は、黒瀬さん自らのピアノリサイタルだった。
曲はバッハのインベンションとシンフォニアの全曲。

この曲は、バッハの鍵盤曲の中では比較的よく知られた曲だと思うが、一般的にピアノ学習者の練習用の曲というイメージがあって、(実際、バッハは、自分の息子達の学習用にこの曲を作曲したそうだ)、あまりコンサートで弾かれることはないと思う。
私もチェンバロ演奏のCDは持っているが、生のコンサートで、しかもグランドピアノで聴くのは初めてであった。

そして聴いた印象としては“瞠目”の一言につきる。
これらの曲が、単に練習用の曲ではなくて、深い内容を包含していることは、以前からなんとなく感じていたので、今回のコンサートは期待していがた、これほど力強くてファンタジーに満ちたものであるとは、私の想像をはるかに超えたものだった。
音楽って、やっぱりすごいなあと思ってしまった。

それに、生のコンサートというのは、とてもいいものだ。やはり感銘の度合いが、CDなとどは全く違う。
神戸でも、これと同じように、市民が気軽に聴きに行けるコンサートがあるといいなあと思う。

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「クラシックファンのためのコンサート」の活動と、これからのコンサートの予定については、
http://www.classicfan.jp/index1.html
をご覧ください。
     

つげ義春のこと(2)

もうすこし、つげ義春のことを書こうと思うのだけれど、彼について、こんなことが書かれているのを読んだことがある。

(つげ義春「蟻地獄・枯野の宿」(新潮文庫)の高野慎三氏の解説の文中)

『かつて著者(つげ義春)は、私(高野氏)の質問に答えて、創作意欲というようなものはない、と言い切った。「自分は金があれば描かないんです」ということであった。
だが、この「金があれば」ということばを経済的に余裕があるという意味にとらえると大間違いである。著者にとって、(中略)大金はほとんど意味をなさない。したがって「金があれば」というのは、「生活できれば」ぐらいのことだ。』

へえ、そうなのか、と私は思った。
しかし考えてみると「創作意欲」っていうのは、いったい何なのだろう。
もの作りに携わっている人には創作意欲が必要不可欠のものであると、世間の大抵の人が思っている。
しかし本当にそうだろうか。

本当に必要なのは、創作能力であって、創作意欲ではないのではないか。

ひるがえって、自分の建築設計という仕事を考えてみたとき、そう思うのだ。
なまじ創作意欲などというものがあるから、施主のお金でつくる施主の住まいにおいて、自分の表現意欲を満足させようというような、そしてそれを世間に売り込もうという

ようなスケベエ心が働くのではないか。

建築家に必要なのは、知識と経験と理解力と責任感であって、創作意欲(ましてや表現意欲)などというものは無い方がいいのではないか、そんな気がする。


なお、つげ氏は1986年に49歳で「無能の人」6部作を書き終えたあと、2,3の作品を書いたのを最後に、現在まで20年以上、新作を一切発表していない。
それは、彼の作品がそのころ認められて、文庫本化などされ、それによってきっと「金がある」=「生活できる」状態になったからだろう。
そういうクールさが、私はやっぱり好きだ。
そういう彼の“生き方観”とでもいうものは、やはり彼の漫画作品(中でも「無能の人」6部作)に色濃く表れ、読む私を安心させてくれるのだ。

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つげ義春のこと(1)

私は漫画とか劇画というのは、あまり読まないのだけれど、だだ一人、大好きな漫画家がいる。
つげ義春である。

彼のことを知るようになったのは、竹中直人が監督&主演をした映画「無能の人」(1991年)のDVDをレンタルで借りて見てからである。
この映画が、たいへんおもしろかったので、原作の漫画を買って読んでみた。
そしたら映画以上におもしろく、強く惹かれてしまった。

映画の原作になった「無能の人」6部作(「石を売る」「無能の人」「鳥師」「探石行」「カメラを売る」「蒸発」)は、ある意味で、私の人生ののバイブルでもある。
というよりも、主人公の助川助三は、私そのものであるような気がするのだ。

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その他にも「紅い花」「義男の青春」「海へ」「ほんやら洞のべんさん」「長八の宿」「池袋百点会」など、詩情とペーソスにあふれ、たかがマンガなのに何度読んでも飽きない。
私の好きな浅田次郎の短編小説(たとえば「霧笛荘夜話」)や、劇団ひとりの「陰日向に咲く」などと共通するものを感じる。

まだ読んだことのない方は、ぜひ読んでみてください。

(ただ、私の妻などは映画「無能の人」を見て、「何、この貧乏くさい映画。貧乏がうつる~、いや、いや!」」と散々だったが・・・。)

「霧笛荘夜話」に思う

浅田次郎の短編が好きで、殆どの本を単行本で買って持っている。
「鉄道員(ぽっぽや)」を初めて読んだときは、不覚にも涙がぽろぽろこぼれた。

その浅田の短編集の中でも、一番好きなのが、「霧笛荘夜話」だ。
霧笛荘というレトロなアパートを舞台に、その家主の老女と住人達の物語が展開するが、著者が描写するその建物の懐かしい雰囲気がとても良く、自分もこんなところに住んでみたいなあと思わせる。

私は、住宅の大切な要素の一つが、“懐かしさ”だと思っている。
それがそこに住む人の心を慰め豊かにする。
だから古いものは大切にしなければならないし、大きな価値があるのである。

そしてまた、私たちが設計し建築する新しい住まいであっても、そこになにか住み手にとって懐かしいものが感じられるといい。
またそこで大きくなる子どもたちにとっても、大人になったとき、その空間を懐かしく思い出すことのできるものでありたい。

その懐かしさというものは、住み手にとってみな違っていると思うが、設計のときの打ち合わせによって、それを上手く引き出せて、実現することができればいい。

そういうことを心に留めて、そしてそれを実現できるような建築家でありたい。
だから建築家は新しいものを創る立場でありながら、古いものも守ろうとするのである。

霧笛荘夜話

・・・浅田次郎 「霧笛荘夜話」 (角川書店)

河井寛次郎記念館

先日、京都にある河井寛次郎記念館を訪れた。
陶芸家の河井寛次郎(1890~1966)が、47歳のときに、自ら設計した自邸兼仕事場である。
外観は普通の町屋のように見えるが、中に入ると、かなり広い敷地を使って、中庭を中心に、自由な空間構成がなされている。
意匠的には、一般的な町屋あるいは民家風の伝統的なものであり、奇を衒ったところや、とりすましたところ、あるいは名士の邸宅などに時おり見られる権威主義的な雰囲気などは皆無であるが、吹抜け、中庭、スキップフロアなどといった、近代的とも言える建築構成上のエレメントによる各室の配置と全体の構成が自由闊達で、住宅建築としては、たいへん優れたものだと思う。
各室と中庭など外部空間との関係も、よく考慮されており、明るく開放的で気持ちが良い。
河井寛次郎は、建築の専門家ではないはずだが、それでいてこれだけの設計ができるとは、にわかに信じがたいことである。
やはり芸術に対する確かな目は、陶芸にも建築にも、活かされるものなのだろう。

写真の掲載は問題があるといけないので、外観だけにしておくが、この建物の持ち味は、その立体的構成と“気持ちのよさ”にあるので、写真では味わうことができない。ぜひ現物を見てほしいと思う。


河井寛次郎記念館

・・・撮影:助川一人(スタジオひとり)

河井寛次郎記念館のサイトは
http://hcn.plala.or.jp/fc211/sagi/

(ただし、そのサイトにある建物の写真は、たいへん下手です。)

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プロフィール

 遠藤 真

Author: 遠藤 真
------------------
建築家(一級建築士)
建築音響アドバイザー
兵庫県神戸市在住
遠藤 真・安田倫子 設計室
主宰
http://www.me-arch.jp/
Eメール: endo@me-arch.jp
あしたの住まい・設計フォーラム
代表
------------------
音楽演奏家(アマチュア)
主にバロック音楽奏者として
ヴィオラ・ダ・ガンバ
フラウト・トラヴェルソ
ブロックフレーテ(リコーダー)
を演奏
神戸ホルボーンアンサンブル主宰
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